肩甲骨

 脳血管疾患での麻痺では、深部感覚が良好な例では初期評価時のステージが低くても回復は良い。教科書には中枢からのアプローチが原則、と書いてあることが多いのだが、残存感覚の良かった末梢からのアプローチで良好な成績を得たこともあった。深部知覚の残存が悪くても、表在知覚が良ければ深部知覚の回復を誘発することも出来た。ただ、視覚代償は多くの場合は効果が少なく、この事が認知運動療法へ向かうきっかけになった。
 上手く行かなかったこともある。筋緊張が高すぎてコントロール出来なかった例だ。言語機能が良好な場合でも、随意性が回復しない例は多い。筋緊張にばかり目を奪われ、低周波や温熱療法など、物理療法に逃げてしまったこともある。効果があったこともあるが、それが本当に物理療法によるものだったのか、他の効果だったのかは分からない。上手く行った例といかなかった例を単純に比較することは出来ない。病巣も、病歴も、生活暦も、教育暦も、職歴も全てが違う。感受性、理解度、高次脳機能障害の有無、百人百様である。ただその中でも、人という生物である以上、共通項は必ず存在すると思う。人が人に何かを伝えるとき、人が自分の心身を感じ取るときのプロセスに、大差があるとは思えない。その共通項が見つかれば、身体感覚を失った人へ伝えられることは、もっと増えるかも知れない。

 末梢機能が良好で、中枢のコントロールが良くなかった人の話である。
 指の粗大運動は可能であったが、肩は肩甲骨の挙上以外は全く動かなかった。指導を受けていた先生には『中枢が良くない場合は回復が悪い』と聞いていたが、無知なもので、手指だけでも動きゃ何とかなるかも、などと考えていた。肩甲骨の挙上は代償運動だと知っていたので極力抑制し、オーソドックスにサンディングと10度程度の肩屈曲位での低い位置での机拭きを利用した肩内外転運動を始めた。指はよく動いていたので、非麻痺側で道具を押さえての木板への螺子回しを続けさせた。肩の痛みを訴えていたので、マッサージと肩外転運動を伴うストレッチを同時に行っていたが、当時はそれほど知識もなかったので、肩甲骨の運動には注意が向いていなかった。ところが、どうやらこのマッサージとストレッチが、中枢のコントロール回復のきっかけになったようだと後で気づいた。肩甲上腕リズムによる肩外転60°までの肩甲骨の動きが出ないと、肩は運動が出来なくなる。見かけ上肩の運動が現れても、肩甲骨の滑らかな動きがなければ、充分な運動にはならない。肩甲骨の動きが確認できるようになると、肩の運動は見る見る内に回復した。その頃には手指の分離は完全になり、握力も回復していた。…ここは苦心した覚えがないので、多分教科書通りに行ったのだろう。

 この数年後、肩甲骨、肩関節の前方突出と、極度の円背で、非麻痺側上肢も挙上困難となった方を診る機会があったのだが、肩甲骨と肩関節のアライメント修正に数ヶ月費やした。恐らくは健常人でも、自らの姿勢の異常には早々気づきはしないのだ。いつの間にか肩が凝っているのは、過緊張を起こした棘上筋が肩を引き上げているからだったり、僧帽筋が頭の皮を引っ張っていたりするからだったり、そんなこんなが重なって脊柱が曲ったり、骨盤が前傾したりと、毎日の積み重ねでそうなるのだから、常日頃からしっかり歩いて、体操して、姿勢は整えておいた方が、病から復活するのも早いはずだ。