現象学的視点(?)

 現象学では『自らの思考を止め、そこにある現象だけを記述(観察)せよ』と言う。哲学というのは大体が無茶言うなぁ、と思うのだが、思考形態を変えるには参考にはなると思う。私は哲学者でも社会学者でもないので、論じるほどの知識もないが、自分の頭の中の整頓も兼ねて書いて行きたい。但し、読まれる方にはあくまで個人的な考えとして読み流して頂ければと思う。

 間主観性、という言葉を最初に目にしたのが何処だったか覚えていないが、これまで『客観的』『主観的』という二元論だけで思考を捉えていた私には新鮮な表現だった。ネット書店で検索してヒットした『行為と認識』(小川英司著・いなほ書房)という本に現象学に至るまでの社会学の系譜が入門的に纏められているのでそちらも参考にして頂きたい。
 高次脳機能障害における失概念について(例えば観念失行とか、観念運動失行とか呼ばれていたもの。この手の症状の呼び名は時代背景や論者によって用いられ方が変わって来る)人が目的動作を行う際にどんな概念が必要になるのか、或いは、新規に技術を獲得するにはどんな伝え方が必要なのかということを考えた。小児発達の運動学習においては、他者の行動理解が基本になり、成人においても人の行動や運動を見習うということは動作の習熟に繋がる。プロスポーツ選手の技術がコーチの能力によって左右されるのもこれに当たるだろう。さて、恐らくはヒトである以上、脳にどんな損傷を負っていようと、見習うことは最初に再獲得しなければならない能力であろうと思われる。その時、見る能力が障害されていたら、聞く能力が障害されていたら、或いはその他の感覚が障害されていたら、ヒトは何を頼りに相手の意図を汲み取ればいいのだろうか。
 小川先生は著書の中で『私の意識は他者のまなざしを被ることによって注意の変容を来たすのである』と書いている。
とすると、人の意図を汲み取るというのは、相手に注意を向け、注意を向けられていることを感じることであろうか。間主観性は、“私”と他者との間に跨っているものだと考えれば、他者と考えや経験を共有することは可能であると思われる。自分の中に他者があり、他者の中に自分がある、という表現をすると乱暴だろうか。自分の考えと同じ考えが相手の中にあるかどうかを確認する、或いは通じているかどうか注意を向ける、という表現の方が近いのだろうか。どうやって物を把握するのか、小さな物をどうやって摘むのか、もっと複雑な動作をどうやって獲得させるのか、試行錯誤の上に辿りついたのは、自らの身体感覚に注意を向けるということだった。そのために他者の動作を見て確認するというなら、そこに間主観性は存在するのだろうか。間主観性=共通の注意と捉えてもいいものだろうか。
間主観性という考え方は『客観性』というものを批判して生まれてきたものだと言うから、人がどのように行動するかと言う図式を作る上では便利な“公式”であるような気はする。社会を形成する上で、ヒトに注意を向ける上で、人と人の間に何となくふんわり浮かんでいるような気がするその公式に、一体どれほどの人が注意を向けられるのだろう。

もっと拡げるなら、私と鳥の間には間主観性はあったのだろうか。(無茶言うなと言われそうだが)名前を読んだら『ピッピッピ』と必ず三回鳴いたので、通じるものはあったような気はするのだが…。