『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(遥洋子著 ちくま文庫)

 喧嘩繋がりでこの本を改めて読み返してみた。買ったのは数年前で、“パラダイム”って何?と思っていた。
 表題になっている上野千鶴子さんの著書と言えば、直近では『おひとりさまの老後』が有名になった。ちらりと読んでみたが、なるほど、と思う部分と、そうかぁ?と感じる部分とあった。暮らし方と言うのは千差万別あるのだから、感じ方も人それぞれだろう。女性の価値は今や美しさではなく、経済力と断言する方の重視するところが、自分が死に臨した時のペットの行く末だなんて…確かに気にはなる。

 さて、遥さんの著書に戻り。
 最近は妙にオネエな男子も見かけるのだが、彼らだって年食ってまでそうではないだろう。ジェンダーという言葉が随分と一般化してきたが、大概の社会ではまだ男性が女性を虐げている。
 別に牽引力があれば男性であろうと女性であろうと、上に行くことに依存はないが、能力も経験も大体同じような感じの男女がいて、男が上で当然、という雰囲気を感じると流石に虫唾が走る。
 男と喧嘩する時は『とどめを刺さずに、もてあそべ』だそうである。簡単には言うが、一朝一夕に成せる技ではない。無条件に“従え”と声高に叫ぶ敵に対して、通じもしない議論を吹っ掛けるほど不毛なことはなかった。じゃ、無視?それもつまんない。正々堂々とぎゃふん(死語)と言わせてやりたい。あ、とどめは刺しちゃいけないんだっけか。それって昔上司にも言われた気がする。メンドクサイなぁ…。

 発生上は、性差は妊娠三週間程度で分かるらしいが、DNAの性差決定は三日で行われると言われている。性誘導ホルモンが性差を左右するのが細胞分裂三日目らしい。(うろ覚えなので興味のある人は調べて下さい)淡々と発生の過程を見ると、男女差は単なるホルモン誘導の偶然ということになりはしないか。カマキリはメスの方が大きくて、卵を産むにあたってオスを栄養源として食べてしまう。人間は男の方を強く大きくしかも傲慢に作ることによって、生物学上一体何が有利だったのだろう。オスを栄養源として食っちゃう文化が何故形成されなかったのだろう。文中には上野千鶴子の言葉として『文化とは権力や経済力を持たない負け犬の持つもの』とある。女性が上にしろ、男性が上にしろ、“文化”という括りを用いるなら、つまりは集団で存在したいということの現われなのだろうか。群れたい欲は本能らしい。文化は一人では形成できない。つまりは文化に集約されるところの集団欲とは、自分でない他者を排斥するための攻撃方法なのではないかとも思えるのだ。
 別の章では遥さんは『議論というルールが存在しない場に、敬語は意味をもつのだろうか?』と問う。ただ、敬語を使わなくても声を荒げてはいけないらしい。なぜなら、その勝ち負けを決めるのは、喧嘩をしている二人ではなく、周囲にいる聴衆なのだから。その周囲すらも、その場を形成している一個の『文化』であり、そこに厳然としてある『ルール』の形成者である。
会話の相手に対して敬語を使うことには疑う余地がない。相手を威嚇し、叩きのめすために、罵りあうことが是だとは思わない。それは正しい議論の形ではないと思うが、昨今テレビは唾を飛ばしあうような罵りあい番組が多くなった。思えば、最初から負けを意識して望んだ喧嘩(議論)が多かった気がする。謙虚さ?それとも自信のなさだろうか。ただの弱さの現われか。人より多分多読であろうという自負がありながら、その知識を私は使ってこなかった気がする。だから『どうせ』などと言われてしまうのだろう。人よりも劣ると思わず、正々堂々と議論に臨むべきなのだ。象牙の塔の住人に謙虚さは必要ない。人から貼られる『あんたには無理』に侵食され、怯んではいけないのだ。そして相手に理解を求めるべきではない。相手を正々堂々と批判し、反論を恐れず、その考えに質問を投げかける。何故?どうして?分からない、で叩きのめされる相手ばかりではないかも知れないが、相手が顔色を変えて激昂した時に冷静でいられたなら、多分私の勝ちなのだろう。