眼前の命

 高齢者のリハをやっていると、前の日には元気で車椅子を漕いで来たのに、次の日には起きられず、数日の内に逝去する、ということもある。ケースによっては、『もっと早く変化に気づけなかったか』と無力感に苛まれることもあった。しかし、私の知らない時間を生きてきたその人の人生の結果として、その瞬間があるのだ。そして、元気になるために頑張っている人は他にもいて、援助は続けなくてはならない。
 どんな感情があっても、足元がふらつくようなことがあってはならないと思えるようになるまでに、何年かかかった。
 
 公立病院が次々と閉鎖されている。経営難が主な理由であるが、それだけではないだろう。医師不足、診療報酬カット、都市部への医療サービスの集中、山間部の人口減少…。高度先進医療拠点が次々と作られながら、身近な医療には皺寄せが来ている。近くに病院があることの普通さに慣れた町が、次々と医療過疎に陥っている。
 病院は、常に命にリスクを背負いながら、病や怪我を治さなければならない。決して気楽な仕事ではない。処方を出された人の余りの状態の悪さに絶望を感じることもある。命のリスクに対して、医療を受ける側にも背負う義務はあると思う。病や怪我を得たことは、望まないこととは言え、その人の生きてきた一つの事象なのだ。ただ、自分が患者側なら、その瞬間に対し『どうして救ってくれなかったのか』と泣き喚くだろうか。感情的には受け入れがたいその事態を,医師に責任を負わせることで納得できると言うなら、恐らくは日本の医療制度に未来はない。  
 自己研鑽は大切だが、他の産業においても後進育成が大切なことは同じだ。診療報酬を上げたり、医師を大量生産することで解決出来る問題ではない。サービスを提供する側にも、受ける側にもリスク・マネジメントが必要な時代が来ている。

外来患者さんが『病院を良くする会を作った』と言う。何の会かと思ったら、家で育てた植物を持ってきて飾ってくれる会だった。花が終わったらまた持って帰ってくれる。美味しいところだけ見せて頂いて申し訳ない。ありがたい会である。