振り回される

 ここのところ自分の精神に影響を受けるほどの対象者に出会っていなかったので、少々油断していた感もある。経験もある程度積んで、慢心していたか。初心に帰るつもりでコミュニケーションのハウツー本を読み、実践して上手くいってホッとする。多分これの繰り返しなのだ。人をサポートする仕事なんて。どうやって自立(自律)を促し、気持ちよく退院してもらうか。基本は同じ筈なのに、パターンは千差万別、一人ずつ対応していくのが厳しいこともある。

 養成学校の臨床実習で、ある病院へ実習に出た。認知症の専門病院である。計らずも、前の実習でボロボロになっていて、気は重かった。少しずつ脳を病んでいく人たちと毎日関わることに、不安があった。担当教員は言った。『患者さんに癒して貰って来な』…そんなことが可能なのだろうか。自分の立ち位置すら分からなくなった人達に、何かを求めていいのだろうか…照りつける太陽に幻惑されそうな夏の日々が始まった。
 そこに流れる時間はなく、それぞれがそれぞれの時間の中に生きている。人同士の触れ合いも、あるいは諍いも起きるのだが、その時、その場所に生きている人には、その瞬間もすぐに過去になり、記憶から消去される。私は毎日、そこで彼らとお茶を飲み、話をし、手芸をし、洗濯物を畳み、思い出話を聞く。誰もが自分の話をしたがり、人の話は殆ど聞いていない。周囲にとんでもないほど人が集まったり、全然誰も来ないこともある。入れ替わり立ち代り、人が寄ってきたり、離れて行ったりする。私はそこでは、先生だったり、友達だったり、同僚だったり、近所の人だったりする。ゆったり流れる時間は人が作っている。暮らす環境、関わる人の大らかさ。プロとしての信念をしっかりともっていて、その時間を構築するための努力がきちんとされている。喧嘩も起きるし、トラブルも発生する。ただの入院施設ではなく、小さな社会が具現されている。自宅に近い生活を、自分のペースで。そんなスタンスを感じた。
 清清しさと、修復されて次にいく心を貰って、実習を終わった。
 
 そこでは、人を丸ごと受け止める必要などなかった。ただ、いつ来てもいいよ、いつ離れていってもいいよ、という曖昧ながら確実に思える受容さだけを持っていればよかった。学生だったから指導者に負って頂いた部分はかなり多かったはずだが、指導者にも学生を受け止めてくれる器があったのだろう。失敗も沢山したのだが、次にどうしたらいいのかという課題を与えられただけで、責められはしなかった。
 環境は、人と、入れ物が合致してこそ初めて理想のものが出来る。今の私のいる場所には、私の思うものはない。努力して作ってきた積りだったが、阻害因子も多かった。今の私は、人を受け止めることも、離れていくのを黙って見ていることも出来ないような、変な余裕のなさに支配されている。