知覚と経験

 多重人格障害、という精神疾患がある。一人の人間に人格が二つ以上存在し、記憶、行動、全てが別個で、互いにその存在に気づくことはないというものである。脳梁離断症候で他人の手症候というのがあるが、これは一人の人格下で生ずるので、人格は入れ替わらない。が、自分の手であるにも関わらず、自分の行動制御下にはない。

 多くの精神疾患も脳の病であることが示唆されている。精神疾患の場合、発症時期が若い頃であることが多い。長く病期を体験することになる。人の知覚経験の何をもって“普通”とするかは意見の別れるところだろうが、敢えて『通常の体験』と『そうでない体験』というのを分けてみると、病的な体験を多くしている人と、そうでない人とではパーセプションの形成過程は当然変わってくると思われる。即ち、知覚体験の“内容”によって、脳に蓄積された経験記憶、引き出しとして使える知識の内容が、第三者と共通のもの、そうでないものとの比率は変わってきてしまう。
 情報を伝えるとき、この共通の比率が低い人には、伝えたい情報が正しく伝わらないことになる。例えれば、日本語を知らない外国人に、自分の状態を伝えたい時、上手く伝わらないような感じだろうか。

 脳の機能として、認知、行動その他諸々を統合する機能が前頭前野にあると言われている。コンピュータのOSがその制御下にあるアプリケーションを監視しているかのように、前頭前野は外部、あるいは内部情報を収集、保持しつつ、次の行動を決定するのだ。
 夜道を歩いていて物音がしたとする。ドキっとして周囲を確認し、何もないが、取りあえずここから離れようと早足になる。情報収集は感覚受容器が、ドキっとするのは自律神経の機能、何もないか確認するのは特殊感覚(視覚、聴覚)、早足で離れようとするのは情報収集の結果、安全でないと判断した前頭前野の機能と考える。さて、幼少から、お化けは怖いよ、暗い夜道は怖いよと教えられてこなかった人間にはこの判断は出来ないだろう。あれも怖いよ、これも怖いよと間違った情報ばかりを収集してきた人間にも困難だ。とすれば、人の行動を決定する主な要因は、『経験で得た知識概念』ということになるだろうか。

 精神疾患の場合は、『場に応じた正しい行動』をするためのプログラムとしてSST(Social Skill Training)が考えられている。脳疾患でも認知行動療法は用いられているが、高次脳機能障害の症状は多岐に渡る。多くの人が、第三者との共通体験を有しているのだから、過去の経験記憶を用いるのは有効であろう。どの場合においても、人に『正しさ』を伝えるのは難しい。言葉は一旦口から発せられ、人の耳に届いた時点で、自分の言葉ではないとも言う。教える側が『正しい』と思っていても、相手がそう思わない可能性は、大いにあるのだ。

 VIPの言葉がマスコミでよく一人歩きしているが、当の本人は『そんな積りで言ってないのに、よくそんな解釈できるよな〜』と笑っているかも、或いは怒っているかも知れない。しかし、日本語は日本語なのに、人によって悪意にも善意にも解釈される。ああ、言葉ってコワイ。