夢の中を彷徨う

 子供の頃はお化けや怖いものの夢を見て汗ばんで目を醒ます、なんてことはよくあったが、大人になってからはそれほど記憶がない。時の移ろいにより怖いものが変わっていくのは当然だが、久々に息が詰まりそうな夢をみた。

 家に帰れない、帰り道が分からない、という内容の夢は以前からよく見ていたのだが、夢の中でも比較的冷静で、地名を確認、交通機関を確認、なんてことを夢の中でもやっていて、そんなことをしている間に目が醒めていた。今回は、居場所を確認する情報がなかった。
 地名表示板と思われる物はいくつか存在したが、それが地名であるという根拠も、確証もない。交通機関は見えたが、駅や停留所が何処にあるか分からない。そもそも今日が何日で、何曜日かも分からない。回りにいる人間は私を押さえつけようとし、何かを一生懸命言っているのだが、内容は全く理解出来ない。こちらの主張は全く受け入れられず、疑問点は何一つ解決されない…この状況は、一体なんなのか。混乱を極めたところへ、顔を見知った人間が現れた。その瞬間、何もかもが氷解したように理解される。『私を知っている人がいる、もう大丈夫』と。
 
 長い夢だった。目が醒めた後で思った。
 この状態は、認知症ではなかったかと。

 普段私は、地名が分かる場所、交通機関や道路を使って移動が可能な場所に住んでいて、日時や自らが置かれている事態を確認することが出来る。確認の主体は私であるが、結晶性知能を使えなければ確認の根拠はない。夢の中での探索活動では、確信的な情報は得られなかった。時の移ろいには意味はなく、とにかく自分の知っている物、自分を知っている人を探し続けた。
 周辺環境の情報を上手く利用するためには、結晶性知能が重要で、結晶性知能を上手く引き出せなければ、周辺環境の情報が意味をなさなくなる。今日が何日で、今が何時か、確認する意味がなく、自分が何をするべきなのかも判断できなくなる。

 結晶性知能の未熟な子供が、親の知能を利用して知識を蓄えていく過程のように、高齢者は他者の記憶を利用しようとすることは少ないように思われる。失われた情報収集の手段、理解の過程、蓄積されない知識…。新しく与えられるものの意義は小さい。今持っていて、知っている物を使うことが最良の手段なのだと思った。