13単位の向こう側

 新患さんです、と処方箋を渡される。脳梗塞後遺症。発症から一年以上経っている。急性期、回復期を経て療養型病床に辿りついた、ということだ。認知症高次脳機能障害など特定の診断名がつかない限り、リハビリの保険診療は月に13単位と法律で決まっている。それ以上は選定療養として、全額自費負担となる。PT,OT,STが同時に処方されれば、週に一度も出来ない。実施日を他のスタッフと相談して、患者さんの部屋に向かう。寝たきりで、反応も余りないという。関節可動域維持程度しか出来ないのでは、と思いながら挨拶してみる。思いがけず、目が開く。声をかけてみる。反応は薄い。が、次の言葉を言ったとき、『おー』声が出た。
『○○さん、○歳ですか、私の父と同じ年ですね。リハビリがんばりましょう』
 声を出せるとは思わなかった。目も開くとは考えていなかった。動くと思っていなかった指に、僅かながら力が篭る。
 この人は期待しているのだ。自分の何かが変わることを。誰も、好きで寝たきりになる訳ではない。
 13単位。復活のきっかけを、医療制度の壁が阻む。

 疾患によっては、長期のリハビリを余儀なくされる例は少なくない。長期=治ってない、という前提なら、そもそもリハビリテーションというものが成立しない。治る、というのは、そもそもどう言う事なのか。年を取っても、健康でいる人は沢山いるし、若くても病に苦しむ人はいる。健康の状態は、年齢に関わらず、人それぞれだ。
『治らない』と呟く患者さんに、治る、というのはあなたにとってどういうことなのか、と問いかけてみたことがある。長いリハビリを経て、ある程度回復を見た後のことで、周囲から見れば『良くなったね』と言って貰える様になった頃のことだ。
 その人は『元の身体に戻ること』と答えた。殆どの人が、この質問をするとこう答える。しかし、完全に元に戻らないことは、リハビリを行っている本人がよく分かっている。そして、愚痴を零すことを本当は申し訳ないと思っているのだが、言わずにはいられないと言う。
『治すのがあんたの仕事だろう』と人の顔を見る度に言う人もいる。文面だけで見るときつい言葉のようだが、期待がこもっている。『私もがんばるからしっかりやってくださいね』患者さんはにやりと笑って、運動を始める。一朝一夕で何かが成し遂げられる訳がないことは、私よりも遥かに年長の患者さんたちが、一番よく分かっている。

『長期に効果のないリハビリを実施すること』を防止するために、この13単位という制限は作られたという。効果判定は誰が行うのか。回復の切符をもぎ取られた人達が行き着く先は何処なのか。かえって寝たきりを増やすだけではないのか。
 数年後、この制度の弊害が分かる頃、一体どのくらいの人々が、この制度の犠牲になっていることだろう。完璧な法というものが存在しないことは分かってはいるし、道徳と経済が両立しないことは自明の理であろうが、何か歯がゆい。