コンプレックス

 感情的経験の記憶、劣等感と訳される。
 自己信頼感が充分でなければ、コンプレックスは強くなる。
 子供の頃充分に愛されていれば、少ないという。
 ただ、外からは見えにくい。
 よく聞けば『どうしてそんなつまらないこと』と第三者が思うようなことでも、本人にとっては大問題だったりする。
 程度の差はあれ、誰にでもある。

 私にもコンプレックスはある。恐らく努力では解決出来ないものなので、諦めてはいるが、内向的になった理由の一つではある。かといって生活に影響のあるものでもなく、本当に困っている人から見ればたいした悩みではないのかも知れない。誰かに知って欲しいと思うこともあるが、同情を求めているように思われるのがイヤで人には話さないようにしている。
 自分の傷みは、自分で受け止めるしかないのだと諫めてきた。
 ある時、対象者にそのことを指摘され『今の所困ることもないし、仕方ないから』と答えると『強いなぁ』と言われた。自分でも驚いたのだが、指摘されて、腹が立たなかった。もっと若い頃なら、身構えただろうか。この人は自分の敵だと思ってしまったかも知れない。でも、そうはならなかった。ただ、言われた事実を真っ直ぐ受け止め、自分の考えを素直に伝えただけだった。
 それは、強いのだろうか。それとも、開き直っているのだろうか。敢えて考えないようにしてきたそのことを、振り返る機会になった。
 障害受容と言う言葉がある。
 受容、という意味では、私は今も自分を受け止め切れていない。多分、一生無理だろうし、それは無意味だと思う。例えもっと自分に自信があり、よく出来ると周囲が思ってくれていたとしても、その気持ちは消えないだろう。それがコンプレックスなのだ。
 恐らく、この心理は普遍的なもので、多くの人が受け入れられない自分と向き合っているのではないかと思う。どこかで折り合いをつけ、今を生きているのだと思う。
 そういう意味では障害受容と言う言葉は、諦めと、充分でない自分に抗うことへの放棄なのではないか。前に進もうと抗う気持ちを受け止められない周囲が、問題行動として位置付けた罪な単語なのではないか。
 人は自らのあるがままを受け止めると同時に、認められない自分も見つめ続けなければならない。自分と言うコンプレックス=複合体は何時までも様々な面を表に向けながら、自分ですら分からない何かを今も作り続けている。

 ただ一つ。人を受け止めるのは、難しい。それだけは本当に難しい。