”痛み”を語る

 痛みをとる方法、をずっと考えてきた。文献も探してきた。しかし、痛みは中々とれない。
 最も厄介なのは、“中枢性疼痛”、かつて視床痛と呼ばれていたものだ。安静時にも、運動時には特に増強することが多い。
 低周波、マッサージ、ホットパック、鍼灸。痛みを取る療法は感覚受容器に直接作用する物理療法が中心で、私も今の所他に思いつかない。認知運動療法で痛みや痺れが軽減した経験はあるが、時間薬の気もしてしまうし、今の所は物理療法の方が効果的なような気がする。但し、痛みが和らぐのは一時的で、痛くなったら病院にくる、という感じで癖になる。

 ある時、脳梗塞の後遺症があるという方が来られ、足の痛みを訴えた。が、痛みは限局的で、中枢性と言う感じではない。外果に熱感、腫脹を認めた。捻挫ではないかと思われた。物理療法のみで痛みは取れた。ただ、歩き方が不安定なのは後遺症によるものと思われ、明らかに足関節内反が見られたので歩容修正を行った。足関節に負担がかからなくなったので、足に痛みが出なくなった。捻る可能性はあるが、装具を作るほどではないので、痛みが出たら湿布を貼って貰うよう指導して、終了となった。
 これは痛みを外見から評価した例である。何故痛かったのか、当の本人は殆ど語っていない。基礎疾患のせいだと思い込んでいたからだろう。

 痛みの質、というものがある。傷が治ればとれるもの、末梢神経性のもの、精神性のもの、明らかな脳由来のもの、細かく痛みの質と位置を特定していけば、治療方針が決まる。ただ、人の表現は色々なので、教科書的な評価と組み合わせての判断になる。
 メルロ・ポンティの研究者、船木亨さんは著書にこう記している。
『発生しつつある出来事がだれかにおのれを語るようにいざないながら、語られるべきものへと展開し、語られるであろう意味によって、出来事自身が秩序つけられてくる。そのときひとは語られる主体となって出来事を語り、語る言葉のもつ反作用によって、語ろうとした以上の意味を出来事に発見して驚くことになるであろう。そのような場合には、行動の方も、決して盲目的な衝動につき動かされているわけでもなく、それ自身出来事を指示すひとつの表現として、真実を語ろうとする行為にともなって意味の実現に立ち会わないではいられないのである。』(メルロ・ポンティ入門 ちくま新書P245)
 痛みと直接関係ないように思われるが、身体感覚を表現するに当たって、自らを語る、ということは重要で、結局評価者が何を求めたいのか明確にし、その目的を果たす為に、『語り』を導き、聞き続ける。それによって明らかにしたい事象=痛みの原因を特定する。数ある言葉の中から、何かが浮かび上がってくる。私はこのくだりを読み、語りは時間軸と受け取る人間の世界観によってはそれぞれに違う意味を生み出すのではないかと考えた。著者の意図は違うところにあるかも知れないが。

 痛い本人の世界に、対策はない。セラピストには対象者の言葉を集め、分析し、新たな世界を構築しなおす能力が必要だと思う。言葉がなければ、現象がそれを導いてくれるだろう。パラダイム・シフト。思い込みは捨てよう。