生きたい人と、死にたい人

 職業として、生きたい人たちのリハビリを行っている身としては、安楽死の事件は、日本でもこんな時代が来たのか、という印象だった。

 人という生き物の本能として、最期まで毎日を普通に過ごしたいという患者さんを多く見てきたが、死にたい人の気持ちは分からなくもない。踠いて必死に生きようとする人の姿は尊いし、かくありたいと思うものだが、苦しみの瀬戸際まで追い詰められたら、もう十分がんばった、もういいよね、という気持ちになっても仕方がないと思う。

 自分が癌罹患者だから言うわけでもないが、経験したことのない苦しみは、結局経験したことがない人には分からないのだ。

 安楽死を安易に肯定するつもりもない。自殺も命を奪うことには違いない。緩和ケアもどこまで有効なのか。麻酔は痛みを大幅に楽にしてくれるが、ふらふらの身体を動けるようにはしてくれないのだ。

 心が挫けてしまったら、生きる意味はもう見出せないかもしれない。命を得た以上、生物として生き抜く事は、命の長さを問わず命題だと思ってきたが、苦しみ抜いてまで生きる意味とはなんだろうか。

 癌の痛み、薬による吐き気や痺れ、その後の身体の衰弱から再就職まで、治ると確信していたから出来た努力も、その瞬間を捉えてみれば泣き言と諦めの連続だった。難病で自分の命を諦めなければいけなかった苦しみは察するに余りある。人はそんなに丈夫には出来ていないのだ。

 

 それでも命を奪わずに支えてあげられなかったのかなあ…と、残念な思いもある。

 努力は美しいかもしれないが、泥臭い。気持ちが折れる日は必ずある。生きる強さを要求するのは、拷問に等しいと思う。