笑うこと

 認知過程の解明において、『笑い』は重要な要素と思われる。これについては興味深い先行研究があって、4コマ漫画における笑いという内容の論文を読んだことがある。どうして面白いと感じるのかという“感じ方”について、この論文は1コマ目と4コマ目との落差が笑いを生むと結論付けている。
 単純に笑い、を追求する場面において、お笑い番組の構成を見ると、吉本新喜劇では、普通の日常、と思われる中にごく普通の人、と思われる登場人物を設定し、ありそうにないシチュエーションが展開する。例えば、近所にいくつか店のある饂飩屋さんに出入りする“そこでは日常な”人々が巻き起こすトラブルを、とても日常では使えそうにないギャグ(関西人は使っているか…)やお涙頂戴劇を交えて解決するというもので、大勘違いが大いにコトを複雑にするにも関わらず、最後は大抵ハッピーエンドだ。大袈裟にこけたり、素っ頓狂な格好をしたり、いつも同じギャグばかり使っているのに、何故か笑えてしまう。、ボコボコに殴られているのに『今日はこのくらいにしといたろ』も、やられているのにそのセリフかい、というコケが入るから面白い。眼に見えている光景とセリフの落差が笑わせる。
 笑いの中には、小さな意外性や非日常があるのだ。
 例えば、裸芸人にしても、その場面でその格好?と思えるから面白いのだろう。だからあんまり乱立してくると、普通になってしまう。
 言って見れば、この種の“笑い”は日常生活の中の“アハ体験”で、アドレナリンが放出されやすい笑いなのではないだろうか。

 もう一つ、笑いには『癒しの笑い』が存在する。
 自分と共通のもの、可愛いもの、好きな物を見ると思わずにっこりしてしまう。ギャハハ、と大笑いは出来ないが、微笑める。
 ドジ話などは『ああ、あるある』で笑える。時と場合によっては引かれることもあるかも知れないが、これも人によっては癒しになる。
 可愛いと思うもの、楽しいと思うもの、好きなものには人それぞれ好みがあるので、リサーチするしかないが、笑いが癒しであるなら、好きな人に笑ってもらうためにどうすればいいか考えれば、円満疑いなし?

 自分の好み以外の物に興味を持つのは大変なことだが、話題に持ってくるくらいなら余り努力しなくてもいい。楽しい会話は、笑いから。たまには直接お笑いの舞台を見るのも参考になるかも。