治療理論

 認知運動療法研究会の会員専用ページに、鏡についての論文が掲載されている。鏡に映る身体をどう認識するか、という論題と捉えたが、ミラー・セラピーへの批判的な要素も含んでいると思う。

 私が療法士になりたての頃、巷ではラマチャンドラン博士のミラー・セラピーが注目されていた。日本でも栗本伸一郎さんがこれを用いて手指の機能を取り戻したとテレビ番組で放映され、実際に用いた人も多かったのではないだろうか。私も何人かに試してみたが、大きく変化の出る人は少なく、その原因は恐らく深部知覚低下にあるのだろうと考えていた。自身の関節の動きや、位置が感覚で認識できないのに、動きだけを視覚で追っても仕方がない、と鏡を使うのを諦めた。後輩のセラピストがこれをやりたいと言い出し、効果はないと切り捨てたのだが、その根拠について詳細を語ることは出来なかった。認知神経の理論に出会う以前の話である。それから、自分自身の身体知覚を取り戻すことが出来なければ、運動機能の回復は望めないのだと推測したが、学校で習った治療理論にはその理論の片鱗も見出すことは出来ず、根拠探しは頓挫した。認知科学、心理学、神経心理学を齧り、数年かかって認知神経リハビリテーションに辿りついた。ポンティもシュッツもフッサールも知らぬまま、もしかしたら自分の考えの礎になるかも知れないと、わくわくしながら関連書籍を手に取った。First Tryは残念ながらなんのことやらさっぱりだったが。

 今、自分に合う理論を探して試行錯誤を繰り返している人に、それは無意味だと語ることの方が無意味なのだろうと静観している。辿り着くまでに、きっと何年もかかる。誰かと議論を交わし、それは違う、あるいは正しいと分かるまでに、誰かと袂を分かつこともあるだろう。そしてその相手は私かも知れないし、もっと違う誰かかも知れない。
『教えてくれない』『口を出すな』『もうちょっとレベルを落とせ』『そんなんじゃ誰もついて来ない』…皆好き勝手なことを言う。私には私の選んだ道が、選んだ理論がある。誰もついて来なくていい。私の頭の中は、私の物でしかない。

 人に左右される自分では、自分らしい自分は造れない。
 鏡に映る私は、本当の私ではない。
 ただ非常に気持ち悪いことながら、理論とは、いつも批判されうるべきものである。
 それに気づき、受け入れられるまでになるには、一体どのくらいかかるのだろう。