自己開示と(それを受け止めること)の難しさ

 病気を理由に辞めなければいけなかった時、人に自分のことを知られるリスクについて思い知った。なんなら血液データから何から全て職場が持っていて、しかも分析出来る専門家までいるのだ。究極の個人情報である。もちろん、外部に流出するようなことはないにしても、職場としてそのデータを就業可能かの判断に使うことは至極当然の事で、とやかく言う筋合いもない。

 しかし、それと心情は別で、出来るのに、と思っていても認められなければ、不本意でも誰かを恨むことになる。

 それは誰かにもやもやしたやるせない気分を押し付けているだけなのだが、結果的に「私のせいじゃない」と思いたいだけなのだろう。

 ただ、本当に情報を使って悪意ある行為をする人間はいるので、情報リテラシーは身につけておいた方がいいと思う。

 

 職業柄、患者さんに困っていることをよく聞くのだが、どう考えているか深い所まで話す人やら、あんまり触れられたくない人やら、色々いる。

 細かく自身の心情を語る人もいるが、バックグラウンドを把握していなければ、何をもってそう思ったのかがわからない。よって細かく聞くことになるのだが、何せ自分より長く生きてきた人ばかりだ。含蓄のある言葉が多く聞ける。家族関係が最も多いが、激情を吐露されると、これ何とかしないといけないのかな、と経験が浅い頃はなっていたが、今では、本人が何とかできなかった事を悔いているのだと受け止めている。それは怒りだったり、嘆きだったり色々するが、目の前にいる誰かに対するものではなく、自身の不甲斐なさに対する感情なのだと最近では思っている。

 声に出し、言葉にすることで、自分がどう考えてきたか、どう悩んできたかを受け止められる。そこが解釈できて初めて人の辛さの一端に触れられるのだとか考えたが、そこが自己開示の難しさで、人の気持ちを知ろうとすることは、自分の中にある似た感情の引き出しを探ることになるのだ。

 その時、自分の感情の核は別のところに置いて置かなければ、冷静でいることは出来ない。

 人の経験を知ろうとすることは、自ずと自分の似た感情体験を再現する可能性がある。そこで自身の感情に引っ張られることがないようにしなければならない。

 

 それと似た事に読書がある。

 本を読むと、それを書いた人、登場人物など様々な人の感情に向き合える。

 年を重ねると、物や場面からも思いを感じたりもするのだが、とかく人は自分のことになると客観的になれない物だ。

 読書は他者の心を推し量る擬似体験が出来る。また、本という対象物を媒介することで、他者の感情から距離を置く方法も自然に身につく。

 読書感想文の目的って、そういう擬似体験をした経験なのだと思う。学生の皆さま頑張ってね。

 

 とは言え、なんでもかんでも開示すりゃいいってもんでもない。

 沈黙は金、雄弁は銀。何にしても、程々に。